ゆき丸の鉄道日記

鉄道旅行や雑記を綴ります。

与那原駅舎展示資料館

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次の目的地、与那原(よなばる)駅舎展示資料館に向かうため、首里駅から沖縄都市モノレールゆいレール]で折り返し、牧志駅で降ります。






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ここから、泡瀬営業所行き[30]系統のバスに乗り換えます。

12時45分発ですが、その時刻になってもバスは一向にやって来る気配がありませんでした。

なにしろ、沖縄といえど、那覇は博多や札幌と変わらないほどの大都市で、かつ「鉄道不毛地帯」と言われるほどの車社会。

大通りには車がバンバン行き交いますから、渋滞に巻き込まれて遅れることは想像に難くありません。

バス停には庇(ひさし)が付いていますが、大雨と強風は相変わらずで、まるで台風が来てるみたい。

結局、午後1時と15分遅れて来ました。





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疲れてすっかり意識がぼんやりしているうちに、次が最寄りのバス停だと思って、降車ボタンを押し、そのバス停で降りました。

ところが、何を勘違いしたのか、「与那原」で降りるつもりが、2つ手前の「与那覇」(よなは)で降りてしまい、おかげでその分、歩く羽目になりました。

折りたたみの傘は持ってきているものの、荒れ狂った天候には役に立たないに等しい。

大通りの歩道だから、整備されているものの、傘の骨が折れそうな勢いだし、全身びしょ濡れ、靴の中まで水が入る始末でした。

今まで散々いい思いをしてきた罰(ばち)が下ったようで、よりによって、完乗最後の日に酷い目に遭うとは、皮肉なものです。





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悪天候の中を歩くこと15分、やっと目的地にたどり着きました。

資料館はすっかり住宅街に溶け込んだ風で、大通りから少し引っ込んだ所にありますから、位置的に判りかねます。

受付で荷物を預けることができ、入場券を買い求めました。






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この入場券は、与那原線が営業していた頃を再現した硬券きっぷで、裏に日付の印字と、鋏(はさみ)で切ることができます。

改札の体験ができるというわけです。







館内には、①ヒストリーエリア、②フォトエリア、③ジオラマ、④ムービーエリアの4つのコーナーに区切られています。

平屋の小ぢんまりとした建物ですから、展示物も少ないです。

土曜日にもかかわらず、観光客にあまり認知されていないためか、客は私と後に来た老夫婦の3人だけでした。

私はまず、ムービーエリアで17分にまとめられた軽便鉄道についてのビデオを視聴し、それからフォトエリア、ヒストリーエリア、ジオラマの順に見て回りました。

驚いたのは、沖縄には軽便鉄道のみならず、実は路面電車馬車軌道が走っていたこと。

那覇市街地に、かつて路面電車が走っていたとは、あの車社会からは思いもしませんでした。

すると、ボランティアのご老人が来て、沖縄の鉄道についていろいろ説明してくださりました。







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当資料館は戦前の与那原駅を再現したもので、2014年(平成26年)夏に復元、2015年(平成27年)1月に資料館としてオープンしました。

与那原駅舎は太平洋戦争で焼け、その後、跡地に消防署、町役場、JA農協へと移り、農協が近隣移転することを機に、駅舎の復元構想が持ち上がりました。





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駅前に延びる道路は、今は運河を渡った先まで住宅街が続いていますが、あそこは埋立地で、昔は港(海)でした。

北部地域から山原船が来て、砂糖や木材などが運び込まれ、その運搬用として、1914年(大正3年)に与那原線が開通しました。

1921年(大正10年)には、なんと皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がお召列車に乗車しています。
(しかも往復)

ということは、この地や駅前通りを、皇太子は歩いていたことになりますね。

この駅のどこかに馬車軌道があり、泡瀬方面まで行ったそうな。









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駅舎の裏側に、与那原線のホームと線路がありました。

何かでえぐられたような9本のコンクリート柱は、焼け残った駅舎の柱です。

保存のために、部分的に補修されています。






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路地裏の細い道路に、かつて那覇駅方面へ向かう線路が続いていました。

与那原線を含む軽便鉄道は、今はもうすっかりアスファルトに埋められ、ほとんど跡形もなく消えています。

戦後、沖縄はアメリカに接収されたこともあって、鉄道は復活することなく、自動車社会にふさわしい街づくりへと変わってしまいました。

実は、軽便鉄道は戦争で道床や線路、車両が焼失(一部残存)して、その全貌が把握できなかったため、まだ廃線届が提出されていません。

だから、法律上はまだ廃線扱いにはなっていませんが、まあご覧通り、事実上消滅状態です。







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しかし、そんな中で、近年、路面電車のレールが発見されました。

路面電車は1933年(昭和8年)、車や路線バスとの競争に負けて廃線と、軽便鉄道より早くなくなりましたから、この発見は奇跡に近いものでした。

ところが、発見したは良いものの、保存をどうするかまだ決まってないらしく、とりあえず駅舎裏側の空き地にブルーシートを被せたまま放置しています。







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当時は通勤・通学にも利用された与那原線は、那覇駅から与那原駅まで片道18銭というのは、先ほど見たとおりです。

あの「ひめゆり学徒」を含む学生は、通学定期券なんて制度はありませんでしたから、家から毎日1日分の汽車賃をもらって通学していたそうです。

優秀でかつ裕福な人にしかできない特権ですが、帰りに腹が減ってお菓子や立ち食いそば(1杯18銭に相当)を食べた日には、汽車賃が足りなくなるから、歩いて帰る羽目になったのでしょう。







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館内には、沖縄の鉄道に関する書籍も販売されています。
(写真は、そのうちの1冊)

このうち、ゆたかはじめさんという人が、時々この資料館に訪れるそうです。

「ゆたかはじめ」とはもちろんペンネームで、本名は石田穣一、元裁判官です。

高等裁判官まで勤めながらも、一方で筋金入りの鉄道ファンで、ケーブルカーを含む日本の鉄道完乗を果たしたのみならず、かつて南大東島で走っていたトロッコ列車にまで乗りに行くという逸話も持っています。

世界各地の鉄道にも乗り回っており(本人は乗りつぶしを「乗り歩き」と表現)、たぶん日本で一番多くの種類の鉄道に乗っている方だと思われます。

私の完乗とはスケールが違います。

1993年(平成5年)に定年退職後、「法律に関わりたくない」との思いで、沖縄に移住してきたという。

沖縄にも法律が及んでいると思いますが、沖縄で大学の先生を2000年(平成12年)まで務め、一方でエッセイストとしても活躍されています。

写真の『沖縄の鉄道と旅をする ケイビン・ゆいレール・LRT』を読むと、なんと沖縄で新たに鉄道をつくろうという動きがあるのが分かりました。

ゆいレールは走っているものの、いまだに車による排気ガスが深刻ですから、そういう動きが出てくるのは理解できます。

本の中で、著者が沖縄の鉄道路線図案を提示していますが、傍から見れば、夢の鉄道ネットワークだと嘲笑されるかもしれません。

こういうのをマニア界では「架空鉄」と言われますが、「トラムで未来をつくる会」の相談役に就いていますから、妄想力もなかなか侮れない面もあります。

実は、県でも南北縦貫鉄道を通そうとする計画があるそうです。

まだ検討段階だけど、もし実現すれば、軽便・路面電車以来の線路付き鉄道が走ることになりますね。
(そして、私は完乗のためにまた乗りに行かねばならない。。。)






ボランティアのご老人にお礼を言って、資料館を後にし、バスに乗って、終点の那覇バスターミナルまで来ました。




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ここが、軽便時代の那覇駅に相当します。

目の前にはゆいレール旭橋駅があり、これに乗って那覇空港駅まで行きました。

ゆいレール2度目の乗りつぶしです。(続く)