与那国島7(ナーマ浜、久部良漁港、久部良バリ)
西崎(いりざき)から急坂を下りて久部良集落に入り、ナーマ浜に来ました。
私が来た時点では、島の中で、ここの浜がいちばん綺麗でした。
というのも、地元の人と子ども達、計10人ぐらいで清掃ボランティアに取り組んでいたのもありますが。
美しい海の保全は、地元の人々による無償の働きがあるおかげで、ケチ臭い旅行なんてできないなと胸を締め付けられる思いでした。
好天の夕暮れ時には、日本で最後に沈む夕日を見られるわけですから、この点でも、海水浴はここが一番のお薦めですね。
ナーマ浜の隣には、久部良漁港があります。
『Dr.コトー診療所』でも、ちょくちょく出てきたシーンですね。
ここでは、カジキの一本釣りが行われます。
私が来たときは、もう昼過ぎとあって誰もおらず、閉まっていましたが。
町中にさらに入り込み、県道から左へと折れて、こんどは「久部良バリ」を目指します。
どこからか、小さな子ども達の遊び声が聞こえてきて、幼稚園の脇まで来ると、日曜日にもかかわらず、園児たちが遊具で遊んでいました。
公園が少ないから、子ども達の遊び場は幼稚園や学校となるのでしょう。
賑やかな幼稚園を過ぎ、さらに丘を上がっていくと、久部良バリに着きました。
岩岸が続く中で、1カ所だけパックリ割れ目があります。
これが「久部良バリ」で、割れ目の幅は3~4m、深さ7~8mぐらいあります。
ここは、江戸時代初期の頃から、薩摩藩(島津家)による人頭税という重税に苦しめられた時、島国の人達が税の負担を軽くするための苦渋の選択として、妊婦をここに連れてきて、飛び越えさせたという残酷な伝説があります。
妊婦は納税するほど働き手にならないのが理由で、ここを飛ばされた妊婦は落ちて死ぬか、飛び越えた衝撃で流産するかのどちらかになったと言われます。
伝説なので、実際に行われたのかどうか不明ですが、人頭税は1900年あたりまで続きましたから、長い間、苦しめられたことは間違いありません。
一方、男性の方も人減らしが行われました。
銅鑼(どら)の音の合図で、トゥングダ(祖納と比川の間にある田んぼ)という所まで走らされ、制限時間内にたどり着けなかった者は殺されました。
体力のない人や障がい者を選別する目的なのでしょう。
あれも、加害者は「生産性のない人は、存在価値なし」といった思想の持主で、しかもそれを実践してしまったのですから、いわゆる能力主義も極限まで突き詰めると恐ろしい末路を迎えます。
ほかにも、一部の企業で外国人実習生の妊娠が発覚すると、「生産性が落ちるから」という理由で、退職か帰国かを迫っている有様で、どうも現代版人頭税がこの日本社会を覆っている気がしなくもありません。
(搾取する側は一部の企業、される側は労働者)
そんなことを1人ぼんやり考えながら、海を眺めていると、少しずつ晴れ間が出てきましたが、111km先の台湾は相変わらず雲に隠れたままでした。
右手には、なにやら廃墟めいた建物を見つけたので、行ってみることにしました。
明らかに焼けた跡ですね。
あとで宿の女将さんから聞いた話では、もともと製塩所で、火事で全焼してしまったそうです。
これほど大規模な敷地・工場を持っていただけに、残念ですね。
再び県道に戻り、宿のある祖納を目指します。(続く)