私の3.11と鉄道
これまで私は、3.11で自分が体験したことをきちんと言語化することはあまりしなかったのですが、今こうしてブログを書き続けていくうちに、ようやく自分の中でそろそろ文章にしてもよい気がしましたので、ここに記します。
7年前の今日、家族と一緒に北海道道東旅行を楽しみ終わって、15時過ぎに釧路空港に着いた時、、これまで体験したことのないような、本当に大地が揺れるのを感じました。
そして、空港内のテレビを見て、驚きました。
そして、私達家族がついさっきまでいた釧路の港付近も。
テレビですから、なかなか実感が湧かず、でも現に写っているのですから、だんだんと背筋が凍る思いをしました。
機内では沈んだ雰囲気に包まれていました。
22時頃だったのでしょうか、羽田空港に到着。
どうやら明朝にならないと運行できるか分からないらしく、結局、空港で一夜を明かすことになりました。
空港の係員から毛布を支給してもらい、家族で明日のことについて話し合いました。
まずは鉄道が動き始めたら、すぐに空港を出発すること。
父は出勤日なので、そのまま会社へ向かい、私と母は家に戻って、家の中を確認。
とりあえず、そんなところで落ち着き、さて食料をどうするかと思ってお店を見回すと、やはりなくなっていました。
冷たく硬いフロアの上で眠るのは、とても寝られたものではなく、しかも花粉症も重なって、ほとんど眠ることはできませんでした。
所謂、帰宅難民たちでいっぱいになり、入場規制が敷かれていました。
普段とは違ってゆっくりとした速度で慎重に運転しているようでした。
そして、京急蒲田駅で乗り換え、しばらく待って品川方面の特急列車に乗車。
こちらは普段の時速110kmとはいかないまでも、そこそこのスピードを出していました。
車内は大混雑で身動きがとれないほど。
品川駅に到着し、JRのコンコースに行ってみると、どうやらまだ動いていない様子。
構内のアナウンスが、「え~、お客様に連絡します。昨日の地震による線路等の点検を行っている関係で、現在、運行再開の目途は立っておりません。」とうるさく響き渡り、しかも何度も繰り返されていましたから、父も「放送うるさいなぁ」と怒った様子でした。
帰宅難民の雑踏とアナウンスで雑音がひどく、母と私もげんなりしました。
9時過ぎだったと思いますが、ようやく山手線と京浜東北線が運行再開。
やはり入場規制が敷かれて、順番に来た電車に詰め込まれるように乗っていきました。
父と分かれ、母と2人でキャリーバッグを引きながらホームに到着した大宮行き10両編成の電車に乗車。
車内に押し込まれるような形で乗ったため、体が圧し潰されそうでした。
1駅着く度に、中にいたお客さんを通すためにいったんホームに降りて再び乗ることをしましたから、出発までに時間がかかりました。
そんなことを繰り返していくうちに、とうとう母も体調が悪くなり、仕方なく途中の駅で降りてバスで帰ることに決めました。
バスも混んでいましたが、座れただけまだマシでした。
家に着き、早速中を見回すと、幸い、タンスの引き出しが開いているのと一部の家具が床に落ちているぐらいで、特に被害はありませんでした。
ただ、ニュースでは地割れを起こしたり、地盤が崩れて水が溢れ出る「液状化現象」によって被害を受けたりした地域もありました。
計画停電とは、電力の需要量が供給量を上回らないよう、およそ3時間ごとにローテーションで一定の区域の電気を全てストップするというもので、電力の需要量が多くなる夏の間、実施されました。
どういうわけか、私達の家の周辺とバイト先は計画停電から外れたらしく、ストップすることはありませんでした。
外を歩くと、信号機が止まり、交通量の多い交差点では警察官が中心に立って誘導していました。
この頃、首都圏の鉄道でも節電のために何本かを運休する「間引き運転」を実施し、運行している電車の車内でも一部の蛍光灯を外したり、日中は電気をつけなかったりしていました。
ようやく9月下旬に計画停電は終わり、いつもとほぼ同じ状況に戻りました。